◯江戸時代(幕末)

多くの日本人が我が国の遅れに気付いたのは、嘉永6年(1853年)米国海軍代将マシュー・ペリーが4隻の軍艦(日本人からは「黒船」とよばれた)を率いて江戸に近い浦賀に来航し、武力を背景に日本の開国を迫る事件が発生してからでした。

米国は、武力を背景に日本の開国を迫り、武力に劣ることを悟った江戸幕府はやむなく、これを受け入れ、翌年日米和親条約を締結、この条約を根拠に、安政3年(1856年)7月、アメリカ総領事としてタウゼント・ハリスが下田に来航。

ハリスは、日本に通商条約の締結を迫り、安政5年(1858年)、江戸幕府は天皇の許しを得ないまま、日米修好通商条約を締結。

これを皮切りに、わが国は、同様の条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも同様な条約締結。諸外国との交易に当たって定められた為替レートは、我が国通貨を極端に低く設定されており、我が国から多くの金が流出、国内ではインフレが加速して庶民の生活が圧迫されました。

また、幕府が天皇の許可を得ずに独断で通商条約を締結したことは、国内の武士からも批判され、国内の政情は不安定化します。

そんな中、西欧諸国との交易により最新式の武器を入手した有力大名、薩摩と長州が倒幕を主張。江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜は将軍職を放棄しますが、京都に近い鳥羽・伏見で、幕府軍と薩摩・長州の軍勢が衝突、天皇家の菊の御紋を掲げた薩摩・長州軍が勝利し、徳川慶喜は江戸へ敗走します。

天皇の軍勢に弓を向けた者として、徳川慶喜は賊軍とされ、第112代霊元天皇の血を引く有栖川熾仁親王を東征大総督とする追討軍(官軍)が、東海道を東へ進軍します。

官軍が迫る中、徳川慶喜は江戸城を出て上野寛永寺にて恭順の意を示します。

官軍は江戸総攻撃を計画していましたが、その直前、幕府方の勝海舟と、官軍の西郷隆盛が会談し、江戸無血開城が実現。

新しい政府のもとで、我が国は近代国家への道を歩むことになります。

★この時代の港区

麻布山善福寺(安政5年(1859年)タウンゼント・ハリス一行の宿舎・アメリカ合衆国の初代公使館に、1961年にハリスの通訳ヒュースケンが帰宅途上に暗殺され、善福寺内で死亡)

有栖川宮記念公園(有栖川熾仁親王騎馬像)

江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地(石碑)