我が国には、3万年〜4万年前の旧石器時代から人が住み始めたと言われています。
当時の人々は野生動物を追って住居を移動する生活を送っていましたが、紀元前1万数千年頃になると、気候の温暖化やそれに伴う植生の変化もあり、人々は定住を始め、狩猟採取に加え原始的な農業を行う生活を送るようになり(縄文時代)、やがて水稲耕作を中心にした生活へと変化していきます(弥生時代)。
なお、縄文時代と弥生時代は、国際的な時代区分では「新石器時代」と呼ばれる時代に該当します。
弥生時代には、それまでの家族単位の生活からムラでの生活となりましたが、それは貧富の差やムラ同士の争いも生じるようになりました。
その結果、クニと呼ばれる小国家が誕生し、それがやがて大きな国に統合されて、豪族が形成されていきました(文字はまだありませんでしたが、中国の古い書物に「倭国」との交流を伺わせる記述がされています)。
やがて、これらの豪族を束ねる大和朝廷(ヤマト王権)が近畿地方に形成され、我が国は統一国家への道を歩みます。
紀元3世紀〜6世紀頃、各地で円形と方形を組み合わせた「前方後円墳」が作られ、大和朝廷が各地の豪族に許可したものと考えられており、この時代は「古墳時代」と呼ばれています。
日本に表意文字である漢字が本格的に伝わったのは、古墳時代後半の5世紀〜6世紀頃と言われています。
その後、奈良県の飛鳥を中心に当地が行われていた時代が「飛鳥時代」と呼ばれますが、この頃、我が国には、大陸からの仏教導入の是非を巡り、それまでの日本の神々(神道)を信仰する廃仏派と導入賛成する崇仏派との戦争に発展しました(丁未の乱)。
この戦いに勝利したのは、崇仏派で、その中心となる豪族は蘇我氏でしたが、第31代用明天皇の皇子聖徳太子も、崇仏派として戦った一人でした。
聖徳太子は、戦いに勝ったにもかかわらず、廃仏派が信じていた神道にも寛容で、これが後に、2つの信仰を融合・調和させた神仏習合へと発展し、日本人の宗教観の根幹となることになります。
更に聖徳太子は、個人の能力により人材を登用する冠位十二階を定めた上、主に行政官のあるべき姿を定めた日本ではじめての成文法(十七ケ条憲法)を策定、さらには中国・随の皇帝に国書を送って外交関係を樹立(このとき送った国書の文言「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」で用いられた「日出る処」が「日の本」「日本」の国名になったと言われている)
★この時代の港区
⇒伊皿子貝塚(縄文時代の貝塚(区内8カ所の貝塚の1つ))
⇒芝丸山古墳(芝公園にある前方後円墳。東京都指定史跡)
⇒白金氷川神社(飛鳥時代に創建されたと伝わる)